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「教えてください、白鳥館長」
−芹沢銈介美術館館長に聞く、芹沢銈介作品の魅力とは−


11、型染カレンダー(1946年〜現在)


館長)今日は型染カレンダー。「カレンダーの話だと、また長くなりそう…。」って栗田さん心配していましたね。でも、盛りだくさんになってしまいそう。お許しを(笑)。何から話したらいいか分からないくらい、いろいろな側面から語れますしね。ともかくカレンダーの仕事は、有名。芹沢銈介先生の仕事として、圧倒的に知名度が高いんじゃないでしょうか。
 
Staff栗田)本当にそう思います。ショップでも一番人気は卓上カレンダー、型染カレンダーの縮小印刷版です。でも本物の型染カレンダーを見てしまうと、色もデザインも和紙の風合いも素敵で「やはりこちらにします!」と選ばれる方も多いです。
 
館長)芹沢先生に師事した方々にも、最初型染カレンダーを見て衝撃を受けたという方が多いですよね。また、今でも、芹沢をカレンダーで知って関心を持ち、ファンになったという方のお話をよく聞きます。コレクションされている方も多いでしょう。2013年に来館された彬子女王殿下も「芹沢さんの型染カレンダーを集めております」とおっしゃり、とても嬉しかったです。海外に出荷されたこともあり、アメリカの方からも、ヨーロッパの方からも「セリザワのカレンダーを持っている」と言われたことがあります。そうそう、名女優の沢村貞子さんは大切な献立日記を、型染カレンダーで包んでいたといいますね。カレンダーをそういう風に使うのも素敵ですね。
 
栗田)海外のお土産にも大変喜ばれます。沢村貞子さんの「365日の献立日記」の冒頭に登場する献立帳ですね。型染カレンダーを貼ったノートは本当に素敵で、宝物になりますね。
 
館長)先生は1984年に亡くなるんですが、1985年分以降、現在に至るまで復刻版がずっと作られていますから、考えてみると1946年分から2020年分まで75年分、一年も途切れていないんですね。型染の、手仕事のカレンダーですからね。大記録じゃないかと思います(笑)。
 
つまり、その75年の間に生まれた方の誕生日が、どこかにかならずある。これも型染カレンダーの楽しみです。時々、美術館でカレンダーの展示をしますが、それがたまたまお客さんの誕生月だったりすると大変喜ばれる(笑)。私の誕生日も先生が刻んでいるから、そこは何だか特別の思いで眺めちゃう(笑)。そうそう、今年これから生まれる人のお誕生日もあるわけですよ。
 
栗田)2020年のカレンダーは東京オリンピック開催の1964年の復刻版ということで、特別な感じがして喜ばれています。オリンピックは延期になってしまいましたが。
 
1964年のカレンダーが展示されていた時も同じ年に生まれたお客様が何人かいらして、とっても喜んでいらっしゃいました。同じ月周りの年を12枚そのまま復刻しているので、芹沢銈介デザインが今の生活に溶け込んでいることを実感できますよね。
 
館長)一度、広い会場で75年分、全部展示してみたいなあ…。実現したら史上初ですよ。12×75で900枚。圧巻。上下3段掛けにして左右ほとんど隙間なく並べたとして、1年分が幅1メートル、75年分ならほぼ75メートルですからね(笑)。その年の生まれの人を募集して、カレンダーの前に75人に並んでもらって、にっこり笑って写真を撮る。そういうイベントをいつかやってみたいなあ(笑)。昭和から令和へ、人の暮らしと共に歩み続けてきた仕事ともいえますね。
 
栗田)それは楽しいですね!広い展示会場はなかなかなさそうですが。芹沢先生も天国で喜んでくださるかなぁ。。
 
館長)型染カレンダーを始めた経緯については、幸い、芹沢先生自身が、文章を残しているので、比較的詳しく分かるんです。原文は2013年に美術館から出版している『芹沢銈介文集』の62ページに収録していますので、ご覧いただければと思います(「近況お知らせ」1970)。
それによると、型染によるカレンダーは、式場隆三郎さんと銀座・たくみの山本正三さんの発案だったようで、進駐軍向けに計画されたようですね。芹沢先生の染紙を版下にして、印刷でたくさんカレンダーを作るつもりだったのでしょう。しかし、完璧主義者の芹沢先生の仕事はなかなか進まず、結局〆切オーバー(笑)。それなら型染で染めた実物をたくみで頒布しようということになり、何とか100部ほどを制作して頒布したのが、最初の型染カレンダー。記念すべき、昭和21年の12枚セットのカレンダーですね。
 
Staff栗田)戦後は布を始め材料を入手するのは大変難しかったと思います。なんとか入手できた和紙で製作された型染カレンダー、芹沢先生も大変な状況下であったのではないでしょうか?
 
館長)終戦後半年も経っていない時のことですからね。芹沢先生自身も昭和20年4月に空襲で自宅を焼かれてしまった。型染カレンダーを手掛けたのは、一家で日本民藝館に寄寓していた時のことです。型染につかう餅米は芋の粉を代用、ご家族や小島悳次郎さんたちの助けを得て、なんとか染めたんだそうです。昭和21年のカレンダーは、実物を見ると特別なものを感じますね…。後々のカレンダーのようにきれいに染まっていないんですけどね、でもそこに仕事への喜びがあふれているように感じられます。50歳の芹沢先生。どんな心境だったかと思うんですが、先生自筆の「年譜」には、「頻りに美しきものへの思念燃ゆ」と、強い言葉が刻むように記してあるんです。荒廃した東京。家も家財も失い、日々の食料にも事欠く中で、美への思いが燃えていたと言う。改めて考えさせられますよ、芹沢先生について。先生は、絵も、デザインも、染色も、収集もした人で、その量たるや莫大な量にのぼるわけですが、結局、日々「美しさ」を追い求め、生み出すことに生きた人なんだな、と。「美しさ」へのたぎるような思いが、中心にあった人だったんだな、と。
 
もちろん、紙に型染したカレンダーは前代未聞。しかも芹沢先生の心のこもった仕事。当然非常に評判がよく、柳宗悦先生の自宅では、白い額に入れられて食堂に飾られた。それを見た芹沢先生が感激したというエピソードが残っています。英文学者の寿岳文章さんも「終戦の翌年、みすぼらしい日本人の暮らしと心に、ほのぼのと美しさのあかりをともしてくれた」と書いていますが、当時の実感がこもっていますよね。「暮らしと心に、ほのぼのと美しさのあかりをともす」。いいなあ。芹沢先生の仕事をずばりといい得ています。
 
栗田)芹沢先生のお弟子さんであり一緒に活動された柚木沙弥郎さんも最初の頃の型染カレンダーに惹きつけられたお一人ですね。「絵でもない、字でもない、『模様』というものを初めて見たわけです。それは画期的でした」とおっしゃっています。先生の美への思いが溢れ出たカレンダーは、塞ぎがちな戦後の状況下で、周りを明るく灯してくれる存在だったのですね。
 
館長)でも当初から、毎年続けていくつもりだったかどうかはわからない。数年でやめるつもりだったかも(笑)。実は昭和22年には、3ヶ月が1枚になった別バージョンも作っていて、「頼まれたらその都度いろんなデザインでやろうかな」というような気持ちだったかも。でも、あまりに評判がよくて、やめられなくなっちゃったのかも(笑)。でも、そこから結局1年も途切れず、没年のカレンダーまで作られたのはすごいですよね。芹沢先生は、多くの人が、自分の仕事を喜んでくれるのを力にしていた人。みなさんの喜ぶ顔が力になって続いていったんでしょうね。
考えてみると、多くの人が気軽に求められる芹沢作品というのは、型染カレンダー以前はなかったかもしれませんね。のれんや風呂敷はあったんですが、数百とかいう単位で作られたものではないですしね。絵本や装幀などもありましたが、絵本は部数がすごく少ない特殊なものだし、装幀はまず本が主役ですからね。実際に先生の仕事として染められたもので、一般に向けて本格的に量産されたものは、型染カレンダーが最初じゃないでしょうか。それから75年。今も好まれ、暮らしに溶け込んで、ファンを増やし続けている。間違いなく、芹沢銈介最大の仕事でしょうね。
カレンダーにちなんで、まだまだお話ししたいことがたくさんありますが、この辺で。
 
栗田)美術館の中庭が見える特別室では、その年の型染カレンダー額が壁に掛けられています。老若男女のお客様がこのカレンダーに感動されていて、毎年楽しみにしてくださる方が年々増えているように思います。
 
毎月、毎日眺めるカレンダーはまさに暮らしを彩るもの、75年も色褪せない魅力を放ち続けているものはそうそうないですよね。9月頃に2021年のカレンダーができる予定ですので続きをお願いいたします(笑)。
 
●掲載図録 『芹沢銈介文集』『五十の作品でたどる芹沢銈介八十八年の軌跡』
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